セントルイスとアメリカの歴史

 

始めに

セントルイスの歴史を語るには、まずアメリカの歴史から調べなくてはいけませんでした。セントルイスはアメリカでも有数の歴史を誇る街なので、街の成り立ちはそのままアメリカの歴史であるとも言えるからです。そして、あちこちの資料を調べながら明らかになってきた歴史は私の想像を超えてダイナミックなものでした。今回、セントルイスを去るに当たり、素晴らしい体験をさせてくれたセントルイスとその街に住む皆様にこのページを贈らせて頂きます。(尚、出来事は極力年代順に並べていますので、同じトピックスがいくつかの時代に別れて登場する事もあります)

2003.3.3 ヒロ

 

1.  夜明け:

東海岸の時代(産業革命前夜)

まだアメリカが無かった時代から歴史は始まります。当時、イギリスとフランスは100年以上にも渡って何度も戦争を続けていました。17世紀末にイギリスが持っていた植民地の中で、アメリカとはアメリカ大陸の一部でしかありませんでした。当時のイギリスが持っていたのは現在の東海岸のフロリダよりも北(ジョージア以北)、アパラチア山脈の東のみで、アパラチア山脈から西、ロッキー山脈まで、カナダなどの五大湖の北、つまりアメリカの内陸部は全てフランスのもので、ロッキー山脈の西とニューメキシコはスペインでした。

1744年の英仏戦争はアメリカ大陸の中の植民地の争奪戦で、現在の中西部を巡って激しい戦いが起こりました。その本国同士の戦いに呼応する形で1757年に植民地でも戦争が起こります。これが7年戦争で、領土は狭いながら本国から東海岸までは一直線で物資の補給がたやすいイギリスに対し、広大なミシシッピー川流域を持ち、元々弱かった軍事力を補うために多くのネイティブアメリカンを使って(まるめこんで)機動戦を仕掛けるフランス、しかし、軍事力で優位に立ち、本国からの補給に圧倒的な優位を持つイギリスはあちこちで勝ち続けました。結果としてこの戦いはフランス領へのイギリスの侵略戦争となりました。この戦いの最中に当時のニューフランス(現在のケベック)のオタワ族のポンティアックがイギリスを苦しめ、その覇者としての勇気が伝説となり、現在でも車のブランドに名を残しています。(因みにチェロキー、ミシシッピー、ミズーリなどは全てネイティブアメリカンの部族名です)

この戦争の結果、フランスはパリ条約でミシシッピー川以東をイギリスに明け渡し、同時にカナダからも撤退しました。現在でもフランス語を話す人が多いカナダのケベック州はこうしてイギリス文化圏に取り込まれました。それと同時にミシシッピー川以西はスペインに明け渡すことになり、フランスはアメリカ大陸から撤退することになったのです。つまり、セントルイスが誕生する時代、ミシシッピー川西岸のこの土地はスペインのものだったのです。

この時代にセントルイスは誕生します。1763年、フランスの探検家ピエール・ラクレードとオーガスト・チョウトウはミズーリ川とミシシッピー川の合流点の南側に18マイルに渡って河川の増水による洪水を受けない土地が広がっているのを見つけました。ここは立地の素晴らしさから、アメリカでもっとも素晴らしい都市になる可能性があるとされ、当時のフランス王ルイ9世にちなんでセントルイスと名付けたのです。最初の居留区はニューオリンズ風に作られましたが、そうは言っても当時は2軒の雑貨屋の他、パン屋、メープルシュガー工場、教会がそれぞれ一件ずつあるだけで、小麦、砂糖、ウィスキー、毛布、布などを取り扱う交易都市としてスタートしました。都市と言うにはあまりに小さく、当時の移民の「ニューオリンズ風の白亜の家」は木の壁に布を張って漆喰を塗ったもので、なんとか白壁を創り上げた、と言う程度のものでした。最初、この年に移民してきた人の数はわずか40人でした。ラクレード、ベルリーブ等はこの都市を作った軍人の名前です。

数少ない裕福な家は石で造られましたが、彼らの家の大多数は当時豊富にあった材木を利用して作られ、全ての家は平屋で6メートル×9メートル(16坪)のサイズに二つか三つの部屋を持っていただけでした。

最初の街は、南北では現在のエドワード・ジョーンズドームの北1マイルからマーケットストリートまで、東西はセカンド・ストリートからジェファーソン・アベニューまでで、宅地と農地に分けられており、その当時に作られた住宅地と農地の境界の影響でジェファーソン・アベニューは今でもワシントン・ストリートで曲がっています。最初はネイティブアメリカンの襲撃に備えるため、農民はいつも武装して作業していました。この当時は既にネイティブアメリカンはイギリス人の「マニュフェスト・デスティニィ」(アメリカ大陸に移住し、西へと領土を広げるのはキリストの教えであるとする教義)によって住む所を追われて西へ西へと追いやられており、セントルイスも開拓当初に一度襲撃を受けています。

 

 

1.  朝焼け:

ミシシッピー川の時代(産業革命とともに)

7年戦争に勝ったイギリスは、当時インドも持っていましたが、それは当時、本国から見ると想像を絶する彼方の植民地でした。もともと植民地競争ではスペインやフランスに先を越されてアフリカの一部しか手に入れられなかったイギリスがさらに植民地を手に入れるには喜望峰の先のインドに行くしかなかったからです(スエズ運河は当時無かったから)。幸いにも当時のインドは貨幣経済が発展途上で、為替による決済も始まっていました。つまり、仕入れたものを遠くで売って、その場で仕入の代金を支払うことができたのです。イギリスはこの経済を上手く利用し、本国の銀主体の経済と結びつけました。すなわち、インドで仕入れた綿を本国で加工し、それを植民地のアメリカ植民地に売ると言うビジネスモデルに潤滑剤として銀を組み込んだのです。植民地から金が入る→武器を大量に仕入れる→戦争に勝つ→植民地が増える→さらに金が入る、と言うイギリスのもっとも良き時代はこうして絶頂期に入っていきます。

その後、アメリカ植民地に入植したイギリス人はフランス人のように現地人と交わることなく、イギリス人同士でのイギリス風の生活を望んだので、勃興期のアメリカ(現在の東部)は水を砂漠の砂に注いだように膨大な物資をイギリスから輸入し、消費しました。当時のイギリスからはあらゆるものがアメリカ植民地に渡り、食品、工業製品のみならず、衣類から中にはペットの輸出産業までありました。移民の理由はいろいろ言われていますが、宗教上の対立と全ヨーロッパ人の1/4が死亡したというペストからの避難がもっとも大きな理由でした。従って、貧乏人から大金持ちまで、いろんな人が海を渡ってきたのです。

もともと当時のアメリカにはイギリスに輸出するものは少なく、ゴム製品や砂糖しかなかったのですが、イギリスで紅茶に砂糖を入れる習慣が定着するにつれ、ヨーロッパでは生産できない砂糖を生産するプランテーション(単一栽培)がカリブ海沿岸からジョージア、ルイジアナ、アラバマなどにも広がり、急速に経済力を付けていきました。

さらにイギリス本国では、アメリカ植民地の経済が加速してインドからの綿の供給だけでは原料供給が追いつかなくなると、最初は綿製品の消費地であったアメリカ植民地で綿を生産することを試み、大成功を納めます。これにより、イギリスはアメリカから原料の綿を仕入れて加工し、それを製品に加工してアメリカ植民地に売りつけることで膨大な利益を得ました。アメリカ植民地もイギリスから買い付ける製品の一部の代金を綿や砂糖で支払うことにより、さらに購買力を付けることができました。

こうしてイギリスはインドを起爆剤にしてアメリカ植民地という巨大な薪に火を灯し、自国の産業経済を急速に発展させ、産業革命と呼ばれる急速な発展を成し遂げました。この時代はまだセントルイスまで時代の流れが届かず、せいぜいメンフィス辺りまでしか近代的に開拓されませんでした。

 

アメリカ植民地でのプランテーションはサトウキビを刈り取る作業も綿花をつみ取る作業も膨大な人手を必要としたので、アフリカを植民地に持つフランスは、新しい産業としてアフリカから「労働力」をアメリカに輸出し始めました。これは先の産業革命と平行して短期間に膨大な黒人をアメリカに送り込むこととなりました(50万人から500万人まで諸説ある)。イギリスで機械による綿製品の生産が発展するにつれ、大量に原料を加工できる様になったために、綿花の摘み取りの手作業用の黒人が大量にアメリカに輸出されたのはこのような事情によります。綿花栽培はサトウキビ地域よりも少し北の地域で大成功したためにミシシッピーやテネシー、アーカンソーにはコットンフィールドと呼ばれる広大な農地が出現しました。セントルイスから南に4時間ほど走ったメンフィスなどは綿の交易で栄えた街です。

 

当時のセントルイスはフランス名を持ちながらもスペイン領だったために、統治にはスペインの法律が適用されていました。従って、フランスから連れてこられた黒人奴隷は週末だけ自分のために主人以外の場所で働いてお金を得ることができました。これは一切の自由がなかったイギリスの植民地に住む黒人奴隷に比べると非常に大きな自由で、中には商売で成功する黒人も現れました。植民地の先住民族との結婚を奨励し、植民地に同化することで支配力を強めていったスペインと、一切の結婚を認めずに管理支配したイギリスとの政策の違いがミシシッピー川を挟んで対峙することになったのです(ミシシッピー川の向こう側はイギリス領だったから)。

この様に、ミシシッピー川西岸に開けた当時唯一の都市セントルイスには他の都市と違った自由な雰囲気が溢れていました。現在のセントルイスには黒人が多いのに、メンフィスには少ないのはこのような理由が影響しているのかも知れません。セントルイスの建設から6年後の1780年には人口は500人に達し、家は100軒を数えました。1798年には925人に増加しています。

しかし、イギリスとの戦争で貧乏になっていたスペインはルイジアナ(当時はミシシッピー以西の総称)に投資するお金がありませんでした。そして、そのころ革命が終わってやっと国が落ち着いてきたフランスは再びアメリカ植民地の取得に意欲を見せたのです。こうして1801年にフランスはルイジアナ自治区としてミシシッピー川からロッキー山脈までの土地をスペインから買い取り、セントルイスはフランス領になりました。

ルイジアナ自治区がスペインに行ったりフランスに行ったりしている間の1776年に独立を果たしたアメリカは、川の向こうがフランスになってしまったことに脅威を覚えます。スペインなら気にしないが、フランスは大嫌いというわけです。そしてフランスの軍事力でニューオリンズを始めとする、ミシシッピー川の主要経済都市を独占されると、アメリカの経済の発展に大きな影響が出ると考えました。そしてフランスもその土地を取得しようとして何度も小競り合いが繰り返されました。そこで当時の大統領のジェファーソンはニューオリンズを始めとするルイジアナを譲って貰えるようにナポレオンと交渉しますが、結局戦争になってしまいました。しかし、この戦争でフランスは黄熱病と悪天候に見舞われニューオリンズから撤退してしまい、最終的に1803年4月30日にルイジアナ自治区を1500万ドルでアメリカに売り渡してしまうのです。

この結果、1804年3月9日にセントルイスは初めてアメリカ領となったのですが、わずか3年ほどのフランス領だった時代にフランスは統治をしなかったために、フランス領の間も統治はスペイン風のままでした。それがそのままアメリカ領になったために、スペインの影響がミシシッピー川西岸で唯一の大都市であるセントルイスの気風を形作っていると思えます。当時、セントルイスの人口は1100人まで増えていました。

尚、この後何度もフランスはニューオリンズを手に入れようと戦争を仕掛けますが、当時の経済発展の要であったニューオリンズをアメリカは守り通し、1840年にはアメリカ第二の都市になっています。

 

2. 日の出:

西部開拓時代の幕開け

ルイジアナ自治区の購入でアメリカの国土は一気に2倍になりました。このとき、アパラチア山脈東西での人口比は95:5でした。ミシシッピー川以西には未踏の荒野が広がっており、どれだけ、何があるのか誰も知らない状況でした。そこでジェファーソン大統領はルイス大尉に探検を命じ、ルイスは友人のクラークと共に45人の探検隊を編成して1804年5月14日、セントルイス近くの基地を出発し、ミズーリ川を遡りました。10月にようやくマンダン(ノースダコタ)に達した隊は翌年2月まで越冬してから太平洋を目指し、この年中に太平洋(オレゴン州北西端)に到達しました。当時ロシアがアラスカ沿いに領地を南に拡大しようとしていた時期だったため、この探検は非常に大きな意味があります。この探検ではあまりの辛さから逃亡する隊員が後を絶たなかったのですが、通訳として夫婦で雇われたネイティブアメリカン=インデアンの16歳の新婦サカガウィアは素晴らしい才能と機転と勇気で何度も隊を救います。旅の途中で子供を産んだ彼女は、赤ん坊を背負って総延長1万キロを踏破しました。現在の$1硬貨には彼女が子供を背負った姿が刻まれていますが、いかに彼女がアメリカ合衆国にとって重要な人だったかを物語っています。コインになったインデアンは彼女だけです。

ルイスとクラークはさらに1年掛けて同じ道をたどって戻り、初めて太平洋へのルートを確定しました。これは現在の感覚からはかなり北よりのカナダに近いルートを通りますが、カナダとの国境近くではロッキー山脈が低くなっているので通りやすいことは確かです。このルートはその後、鉄道が交通の主体となるゴールドラッシュまで使われます。

このときルイスとクラークは探検の途中で多くのビーバーを見たと報告しており、これが毛皮を生業とする猟師の注目を集め、セントルイスは彼らの中継地・出発地として最初の発展を遂げます。

当時の人々は、セントルイス建設から40年が経過し、開拓当初に比べればずっと楽な暮らしができる様になったとは言え、今から見ると貧しい生活をしており、小麦と塩とキャベツの葉を混ぜて灰の中に入れて作ったAshCakeや廃糖蜜のキャンデーなどを大切に食べていました。小麦を挽く機械が大評判になったとのことですから、麦から小麦粉を作る作業はとても大変だったのでしょう。Snow Ice Creamと言う雪に砂糖とクリームを混ぜたお菓子もあったそうです。当時のレシピには「フレッシュな雪を使え」と書いてあります。まだ貨幣経済が発達しておらず、物々交換が主流で、先生に子供の教育費を食品や布で払う時代でした。

それでも1811年には現在のマーケット・ストリートの名前の由来となる市場が作られ、その横に多くの人が集まるという理由で1816年に裁判所(現在のオールドコートハウス)が建てられました。

ほとんどの家はセカンド・ストリートとサード・ストリートの間にあり、まだ舗装道路はなく、ブロックを敷いた道もありませんでした。セントルイスがアメリカ領になってからはログハウスに替わって骨組みを持った家が登場ましたが、(丈夫な木の骨組みを必須とする)煉瓦造りの家が登場するのは1813年です。

1817年に蒸気船が就航するとき、ミシシッピー川沿いは大々的に石造りの埠頭に作り替えられました。これ以降、蒸気船が輸送の根幹を占めることになります。

この当時は、まだアパラチア山脈を越えるルートは発見されておらず、19世紀末にジョージア州でルートが開拓されるまでは、わずかな小道が馬と人を運んでいただけでした。鉄道が発達するまで、西部開拓に必要な大量の物資は船で運ぶしか方法がなかったのです。従って、ニューオリンズからミシシッピー川を遡るルートが唯一の手段であり、セントルイスは初めて「ゲートウェイシティ」と呼ばれる様になっていきます。

 

 

3.  最初の発展:

   1821年、ミズーリは州になりました。当時の人口は6万6千でしたが、1830年には14万、1840年には38万3千、1850年には68万2千と10年で約2倍の速度で急速に人口を増やしていきます。この内、約1/6が黒人奴隷でした。急速に成長する都市はどこでもそうですが、この時代の街には多種多様な人種、文化があふれ、セントルイス近辺はイギリス系移民だけでなく、ドイツ系(東欧)の移民が多かったのが特徴で、セントルイスから西に70マイルのHermannでは今でも街にドイツ色を濃く残しているように、その辺りは故郷の川にちなんでラインランドと呼ばれていました。この時代、セントルイスの港は大いににぎわい、5mの深さの埠頭に一列に1マイルに渡って船が繋がれ、南北戦争が始まるまでアメリカで3番目に忙しい港だったそうです(一位はニューヨーク、二位はニューオリンズ)。

ほんの数年の間に生活は急速に改善されていきます。足踏み式のミシンが登場し、ロウソクはオイルランプやガス灯に変わり、さらにしばらく経つ頃には金持ちの家で電気も使われ始めました。セントルイスの南では鉄が取れたので、そこから生み出される近代文化の象徴の鉄器具はあらゆる所を改善していきました。

1827年には現在バドワイザー工場のある地域が、政府の武器庫としてセカンド・ストリートの南端に建設されました。現在もArsenal(武器庫)と言う通りに名前を残しています。街の南端から武器庫までは1マイル以上離れており、その間には何もなかったそうですが、今でもバドワイザー工場とゲートウェイアーチの間は閑散としています。

アメリカがようやく文化の花を咲かせ始めたこの時代、1830年にはインデアンに強制移住法が適用され、全てのインデアンはミシシッピー川以西に移動させられました。チェロキー族などは1万キロもの道を歩かされて4000人以上が死亡するという惨事に見舞われ「涙の道」として今に語り継がれています。

1850年頃にはセントルイスの港はもっとも活気のある時代を迎え、当時の岸辺には170隻の蒸気船が繋がれていました。船のトン数ではニューヨークのみがセントルイスを超える港であり、この時期が港としての「黄金期」で、ピッツバーグの西で最大の都市でした。当時のシカゴはミシガン湖畔にわずかな漁師村がある程度で、船から陸への旅を始める地点は全てセントルイスでした。

さらに1848年のゴールドラッシュの始まりによって多くの人が西への旅を始める地点としてセントルイスを選んだことで、幌馬車ネットワークの起点として更に栄えていく時期に繋がっていきます。 さて、この時代の特徴は、建設からこの時代まで、セントルイスではフランス語が主言語だったと言うことがあります。もともとフランス人が建設したフランスの植民地だったのですから当然と言えば当然で、アメリカ領になったとたんに英語を話し始めるわけがありません。アメリカ領になったとき、多くの住民は涙を流して悲しんだそうです。自分の祖国が自分たちの土地を見放してしまったのですから。そして以後、彼らは次第に英語を話さざるを得なくなっていきます。これはセントルイスのフランス系住民にとってはストレス以外の何者でもなく、以後長い間セントルイスにアメリカに対する忠誠心が育つことはありませんでした。

セントルイスの急速な反映の背後には、このような陰も潜んでいたのです。そしてそれが南北戦争になって一気に表面化してきます。アメリカ併合から一世代以上経過した1861年のことです(後述)。

この1850年代の南北戦争の前夜は、メキシコのスペインからの独立戦争の時期でもありました。この戦争にはナポレオンがフランスの影響力を強くしようとしてメキシコを応援するメキシコ出兵を行っていました。アメリカ合衆国はフランスの影響を排除しようとメキシコの独立を応援してメキシコへと兵を進め、フランスと激しく戦っています。

元々ミシシッピー川以西の統治者であったスペインは財政難からアメリカの介入を許す結果となり、1836年にはこのメキシコ戦争のさなか、短い間でしたがテキサスが(メキシコから)テキサス共和国として独立し、後の45年にアメリカ合衆国に併合され、翌年にはオレゴンも併合されました。フランス軍が撤退したあとの46年にアメリカは今度はメキシコと戦争を始め、カリフォルニアとニューメキシコの大部分を手に入れ、戦争が終わった跡の53年にはアリゾナとニューメキシコの残りの部分を買収します。これによってアメリカ合衆国の国土は(アラスカなどを除いて)ほぼ現在と同じになりました。

この時期はアメリカが太平洋に初めて勢力を拡大した時期でした。既に1741年にアラスカがロシアによって発見されてロシア領になっていましたので、ロシアの南下を止める必要があったのです。そこで、カリフォルニアが州となった直後、1853年にはペリーが日本に来航し、石炭の補給協定を結ぶ様に迫っています。アメリカとしては一時も早く太平洋地域を拡大発展させたかったのです。

セントルイスの発展を語るときに忘れてはならないものに鉄道の発展があります。この鉄道が最終的には蒸気船によってもたらされた中継点としての発展に終末をもたらすのですが、1850年にミシシッピー川の東側まで鉄道が到達したとき、河には橋が無く、全ての人と荷物はフェリーで渡っていました。そして西側の鉄道建設が始まったのは1852年で、ミズーリと太平洋の交通の核となると言う意味でミズーリ・パシフィックと呼ばれました。この鉄道は3年後にジェファーソンシティまで到達しましたが、その後は戦争によって建設が途絶え、カンザスシティに到達したのは1865年でした。

 

5.南北戦争の引き金:

  元々当時のアメリカの州は(建国直後から)奴隷制度を持たない自由州と奴隷制度を認める奴隷州に分かれており、ミズーリは歴史的に農業州との関係が深かったために奴隷州として誕生しました。しかし、先に紹介したスペイン風の統治のおかげで奴隷にもある程度の自由が認められており、それは奴隷と言えども住民の身近な存在であったことを示しています。これがミズーリ州で南北戦争の引き金が引かれる原因となるのです。

この時、既に巻き起こっていた奴隷論争はミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、ミズーリの南端の境の北緯36℃30分以北に今後奴隷州を作らないことを決め(ミズーリ協定)、マサチューセッツからの分離を希望していたメイン州は自由州として成立し、奴隷州と自由州の均衡が確保されました。

1848年にカリフォルニアでゴールドラッシュが始まり、49年のカリフォルニアへの移民(フォーティナイナーズと呼ばれる)だけで8万人が押し掛けてカリフォルニアが州に昇格する際、南北に長い州なのでミズーリ協定では解決できず、カリフォルニアを自由州にする代わりに厳重な逃亡奴隷取締法が適用されるカリフォルニア協定が結ばれて南北の均衡はかろうじて保たれました。

この同じ1849年にはセントルイスで大火があり、15ブロックを焼き尽くし23隻の船を消失しました。同年はコレラも流行し、数千人が罹患しました。

1854年、なおも揺れる奴隷論争の中、カンザス=ネブラスカ法が制定され、その当時に準州だったこれらの州が将来奴隷州になるか自由州になるかは住民投票で決められることになりました。これはミズーリ協定がこの二つの州には適用されないことを意味しますので、自由州も奴隷州も多くの住民をこれらの州に移住させ、投票の主導を取ろうとしました。ミズーリ州からも数百人規模で移住が行われています。

元々セントルイスにはスペイン統治の名残から黒人でも市民と奴隷の2種類がいました。1857年、セントルイスに住む黒人のドレッド・スコットは自由州に住むエマーソンに売られました。しかし、スコットは自由州に住むのなら奴隷の所有は無効であるとして所有者を訴えたのです。この裁判は11年に及び、スコットは自由を手にできるのか、彼はミズーリ州に帰属できるのか、そもそも彼には訴える権利があるのか、等について延々と論議が行われました。その結果、連邦最高裁は「奴隷は一切の権利を持たない」と言う決定を下したのです。これが有名なドレッド・スコット事件で、奴隷論議に拍車を掛け、全米を巻き込んだ大論争から南北の対立へと発展し、戦争への道をまっしぐらに進む引き金となりました。

ところで裁判を起こしたスコット自身は、裁判では負けたものの、その後主人から解放されて自由を手にしています。しかし、一度巻き起こった嵐は当事者の遙か外で強烈な論議を振りまき続けるのです。

1855年には、当時18thストリートまでしかなかったセントルイスの境界がGrandまで拡大され、セントルイス第2の自治体が誕生しました。また、旅行者が容易に街に入れる様にオールド・マンチェスター(現在のマーケット・ストリート)、ナチュラルブリッジ、グラボイス、フローリッサントなどの通りが建設されました。Grandは当初、36メートルの道幅がありましたが、後にLindellストリートを街のメインストリートにするべきだとのリンデル農場の意見により現在の24メートル幅まで狭められました。

この時期の1859年、バドワイザーのブッシュ一族がポーランドからの移民として、使用人から学校の先生まで引き連れて200人以上の大移民団としてセントルイスに乗り込んできて、バーバリアン・ビールの工場を買い取ってビールの製造を始めました。これは、セントルイスが交通の要にあって物資を入手しやすかったことと、水を手に入れやすかったことが大きな要因でした。

同年、初めて馬車用の道が(ダウンタウンの)Oliveストリートに作られ、良い乗り心地を多くの旅行者に提供しました。これ以後70年代に掛けて馬車のネットワークが整えられていきます。

 

6.  南北戦争

   まず1860年、サウスカロライナ州が連邦を脱退したのを始めとして、翌年の前半だけでミシシッピー、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが4月までに脱退し、4月12日にリンカーン大統領はサムター要塞への武器の補給を命じ、要塞の攻防戦である本格的な戦争が始まりました。これが南北戦争の始まりで、この戦い以後もアーカンソー、ノースカロライナ、バージニア、テネシーの各州が連邦から脱退し、全米を二つに割った4年に及ぶ戦いとなりました。こうして綿花のための自由売買と固定労力を基盤とする「自由貿易と奴隷制保持」を掲げる南軍と、発展途上の工業と流動性の高い労力を基盤とする「管理貿易と奴隷制撤廃」を掲げる北軍の決定的な衝突が始まったのです。

   ミズーリでは1861年に奴隷州として連邦に残るか、脱退するかの投票が行われていますが、結果は連邦に残ることになりました。

   当初は名将リー将軍の基で戦いを有利に進めた南軍も、人口の2/3、工場の8割を持つ北軍の圧倒的な物量と、大多数の船舶による海上封鎖による主要輸出品の綿花の輸出阻止と武器弾薬の輸入停止で次第に苦境に立たされていきます。そして翌年には早くも主要拠点であるニューオリンズを失い、リッチモンド攻防戦で善戦しながらも敗退が多くなります。しかし膨大な戦費の調達が思う様にいかない南軍(アメリカ連邦国)は、所得税の創設、戦時貨幣の発行などを行いますがうまくいかず、最終的には徴兵制へと進んでいきます。

そして1863年1月1日、リンカーンが奴隷解放宣言をすると、一気に形勢は雪崩を打って北軍勝利へと進んでいきます。リンカーンは奴隷解放論者ではなく、奴隷制度拡大反対論者でしたが、連邦の維持を最大の目的にしていましたので、解放宣言の方が北軍にとって有利と見るや解放宣言を行いました。

この時ミズーリ州はやや中立的な立場ながら連邦からの脱退宣言を行っていませんでしたので、制度上では北軍に属します。奴隷州の中で連邦に留まったのは15州の中で4州だけでした。

そしてこの7月、リー将軍はワシントンを攻めると見せて迂回してペンシルバニアに進軍し、南北双方16万人がゲティスバーグでこの戦争最大の戦いを行い、双方合わせて5万人近い死者を出し、南軍が敗退しました。これは、戦略的にはリー将軍の読みが当たったものの、大量の兵を同時に指揮できなかったために包囲網が完成せず、却って南軍をバラバラにしたのが主因です。この戦いで負けると北軍はリッチモンド(南軍の首都)まで一気に攻め上る事ができたので、南軍にとっては最後の総力戦でした。

そして1865年4月9日、アメリカ連邦国(南軍)の首都リッチモンドを占領されてリー将軍が降伏し、戦争は終わりました。そして終戦のわずか2日後、リンカーン大統領は南部出身の俳優に観劇中に狙撃され死亡しました。

この4年に渡る戦いの間、ミズーリ州では何度か合衆国脱退を論議していますが、最後まで連邦を脱退することはありませんでした。戦争の引き金を引いておきながら、自らは最後まで連邦に留まり続けたミズーリ州には疑り深いと言う意味の「ShowMeState」((証拠を)見せなさい!の州)のニックネームが付けられました。ミズーリ州は南軍(アメリカ連邦国)に装甲艦を建造するなどの便宜を図っていましたが、積極的に戦いには加わっていません。従って、イリノイ、テネシー、アーカンソーなどの周りの州では何度も激しい戦いがあったものの、ミズーリ州内では大きな戦いは一度もありませんでした(カンザスシティではWestPortの戦いがあったが、大きくはない)。州内を回っても他州にある様な要塞跡も戦場跡も無いのはこのような理由によります。(この地域は西部戦線と呼ばれており、さらに西では大きな戦いが起こらなかった。)

一方、連邦を脱退して連邦国を建国した南部諸州は戦争後の67年に連邦に復帰しましたが、その後10年間は軍政下におかれました。

以上の様に奴隷解放宣言は、どちらかと言うと戦争を有利に運ぶための道具でしかなかったため、黒人には選挙権は与えられたものの土地の所有が認められず、結局解放された黒人が貧困から抜け出すことはありませんでした。更に南部諸州では軍政からの解放後、独自に白人のみに有利で黒人の人権に制限を設ける法律を作ったので、黒人が経済で台頭するのは20世紀まで待たねばなりませんでした。

 

7.戦争後の復興

 この南北戦争のさなか、アメリカ合衆国はホーム=ステッド法を制定し、5年間公有地に定住したものは160エーカー(65ヘクタール)の土地を取得できることになりました。これによって西部への移住が促進され、セントルイスは再び活気のある街へと輝きを取り戻していきます。戦争が終わった1865年から、セントルイスは急速に発展を遂げていきます。この年に大きなホテルだけで四つがオープンし、多くのオフィスビル、銀行、商店が作られました。

    しかしこの時期、アメリカは戦争の再建のみに注力することは許されませんでした。ロシアは更なる南下の気配を見せていました(実際には労働争議が多発して、それどころではなかった)から、アメリカとしては素早く太平洋側の覇権を手に入れておかないと、太平洋側の一部がロシア領になる可能性があると考えたのです。そこで1848年のゴールドラッシュの勢いも借りて、合衆国はひたすら西部の開拓を勧めたのです。しかし、それでもロシアの脅威への不安はぬぐい去れず、1867年、アメリカはロシアから$600万でシベリアを買収することにしました。

    この時期、セントルイスのユニオンステーションはまだできていませんでしたが、時代は既に鉄道のものへと移っており、1869年に大陸横断鉄道がネバダの荒野で東西の連結を果たした後、1890年の国勢調査で今まで西へ西へと動いていたフロンティアラインの消滅が宣言され、合衆国内に未開の地はなくなりました。因みにフロンティアとは1平方マイルに1名の人がいる地域のことで、フロンティアラインとは人口1名の地域とゼロの地域の境です。

これとほぼ時期を同じくしてシアーズがメールオーダーによる販売システムを開発しましたし、リーバイスは全てのモデルを型番で区別する様になります。かの有名なモデル501はこの時に誕生しています。

そして1872年にEadsブリッジ(ゲートウェイアーチの隣の古い橋)が完成したことで、初めてセントルイスの東西が結ばれ、フェリーを必要とせずに鉄道だけでの輸送が可能になったのです。

同年はフォレストパークの設立の年でもあります。いろいろと論議を巻き起こしましたが、州高等裁判所の指示によりセントルイス市は1372エーカーの土地を80万ドルで購入しました。1エーカー(4000平方メートル)辺り$60です。この土地のうち1100エーカーは未開の森だったためフォレストパークと名付けられました。この時、Grandの西側に街はなかったのでこの公園がオープンした1876年には公園の東側だけが整備されました。

更にこの年はセントルイスの境界の最後の延長が行われ、Skinkerの180メートル西までがセントルイスになりました。

 

9.セントルイスの復興と博覧会

     1880年の調査で、セントルイスの人口は10年間で4万人しか増えていないことが判明し、70年代以前の高い成長率に比べて増加速度が鈍化していることがはっきりしました。この80年代、セントルイスのダウンタウンにはケーブルカーが走り、短いながらも利益の高い営業をしていました。この80年代に電気が街で一般的になりました。1890年の調査では人口45万人で、アメリカ第4の都市であることがわかりました。まだ電話の使用者は3千人に届いていない時代でした。

このころはダウンタウンの中心街で高層建築が盛んに行われる様になり、エレベーターを備えた10階建て以上のビルがこの地域の標準になり、最も高いものは16階建てでした。 

1894年にはセントルイスのユニオンステーションがアメリカ最大の駅としてオープンしました。この駅は街ができた後に作whispering archったので、行き止まり式(頭端式)の西洋風の駅で、シカゴやカンザスシティと言った新しい世代の街の駅が(日本と同じ)通り抜けを前提としているのに対し、ヨーロッパ風の雰囲気を出しています。当時は多くの軍人でにぎわったそうで、一日数十本の列車が運転され、駅の待合室はとてもにぎわっていました。現在のユニオンステーションの2階にあるハイアットホテルのロビーが一等待合室になります。この駅は1978年まで使われていましたが1985年に現在の様にショッピングセンターとして生まれ変わりました。

 

そして20世紀も間近の1896年、ラファイエットパークからイーズブリッジまでを竜巻が通り抜け、多くの被害を出しました。

 

   1904年の世界万国博覧会では2千万人(?)もの人がセントルイスを訪れ、ルイジアナ購入の百周年記念を祝いました。街は活気に溢れて多くのホテルが建設され、セントルイスはビール、靴、ストーブ、馬車などの生産量で世界一になりました。

この万国博覧会ではアイスクリームコーン(加工技術の進歩)、ホットドッグ(冷蔵保存技術の進歩)、アイスティー(冷凍技術の発達)(全部まとめて電気の普及が主因)などが観客に提供され、大好評を得ています。これらのうち、コーンについてはトウモロコシの集散地だったため、ホットドッグ(ハンバーガーという説も多い)についてはドイツ系移民が多かったためハンブルグスタイルの挽肉料理が一般的だったこと、が原因と考えられますが、アイスティーについては理由が分かりません。たぶん、炎天下に外を歩き回る人には、当時一般的になり始めていた氷を入れた飲み物が喜ばれたのでしょう。今でもそうですが、アイスコーヒーではなくアイスティーが一般的なのは、既にその当時にセントルイスはフランス統治の名残をほとんど無くしていたと言うことでしょう。

また博覧会の余興として第2回オリンピックが開かれ、13カ国681人の選手が参加しましたが、ヨーロッパから離れていたのでほとんどの選手はアメリカ国内からの参加でした。この当時はのどかな時代で、水球の会場は前日まで牛が水浴びをしていた池でした。これにより多くの選手が帰国後寄生虫で亡くなりました。またマラソンでは20キロ地点で倒れた選手が通りがかりの車に便乗して会場に戻る途中、元気が回復したので残り5Kmを快走してトップで会場に戻り、一位になってしまいました。しかし、これは運転手の告発で1時間後に戻ってきた選手が正式にトップになっています。

 

10.リンドバーグ

             1927年と言えば、リンドバーグの大西洋横断の都市です。この偉業は全米のみならず、世界中を沸き立たせる一大イベントでした。もともとリンドバーグは変わり者の資産家の息子として生まれ、幼少時代をウィスコンシンで少年時代をワシントンDCで過ごしましたが、親からの独立した生活を望んで軍隊に入りました。少年時代から飛行機の操縦を覚えていた(当時は飛行免許制すら存在しなかった)彼は、軍隊なら好きなだけ飛行機が操縦できると考えたのです。そして軍隊に入りましたが、軍隊で飛行技術を覚えると、当時勃興期だった航空郵便の担い手として操縦士になる決意をしたのです。彼がセントルイスに来たのはちょうどその時で、新しいものを積極的に受け入れ、支援していくセントルイスの気風がとても気に入り、彼は生涯の安らぎの場とする決心をしました。

    彼がセントルイスとシカゴを往復していたころは気象予報も正確ではなく、有視界の地紋航法のみで危険性が高く、安全に郵便を届ける使命に燃えていました。そして、絶対に守り抜かねばならない大切な郵便袋を雹や嵐の中から守り抜いて何度も命からがら届けたのです。彼の飛行技術は次第に有名になっていきます。

    そんな彼が大西洋横断飛行に興味を持ち、命を懸けて取り組もうと決意したのもある意味自然だったのかも知れません。当時は太平洋を飛行する機能を持つ飛行機は存在せず、複数のパイロットが乗り込む多発エンジンの大型軍用機が唯一の方法を考えられていましたが、生来独立心の旺盛な彼はエンジン一機だけの単発機を一人で操縦する道を探りました。

    何度もの困難を乗り越えながら計画を進めていった彼は、最終的に資金難を解決する事ができず、力尽きてセントルイスに戻ってきました。その時、彼を強力に支えたのはセントルイスの商工会メンバーでした。そして商工会のメンバーの一人の発案で新しく製造される特別製の機体を「スピリットオブセントルイス」と名付ける事に彼は快く賛成したのです。

  

    彼の意見が大幅に採り入れられた特別製の機体はロスアンゼルスの小さな、しかし新進気鋭の航空機製造会社で彼の好みに従って作成されました。一番大切な主翼の制作では、工場から運び出すために壁を切り取る必要があったと言いますから、その会社にとってもかなり挑戦的な仕事だったのでしょう。彼はこの機体をセントルイスの人々に紹介すると、直ぐに出発点であるニューヨークに向かいました。

    当時の大西洋横断には多額の賞金($40万)がかかっていましたから、多くの挑戦者がいろいろな手段で大西洋横断を試みました。30時間以上の飛行になるのですから、ほとんどの飛行家は複数パイロットでのチームを組んで挑戦していました。リンドバーグが飛行機が出来上がった途端に挑戦したのも、一番乗りを目指すと同時に賞金獲得者になりたかったからです。もちろん、そうする以外に飛行機の制作費を返済する方法はありませんでした。

    ニューヨークでは多くの挑戦者が大西洋横断飛行協会に登録を済ませ、飛び立っていきましたが、その全てが失敗に終わっていました。運の良かったものは離陸直後に墜落し、あるいは沿岸地域で小舟に救助されましたが、運を使い果たした何機かは最後まで消息が分からず、大西洋の藻くずと消えたものと推測されました。そう言う危険性の高い挑戦でしたから、マスコミは連日リンドバーグを激しく追いかけどこに行くにも何台もの車で追いかけたので、彼はとても神経質になっていました。彼が大西洋の天候の回復を待っている間に少なくとも3組の冒険家が出発を試みましたが、ひと組は出発の直前に獲得賞金の事で仲間割れして飛行を取りやめ、もうひと組は大西洋で行方不明になり、最後のひと組は離陸直後に墜落しました。

    やっと大西洋の天候が回復すると見込まれたある日、彼はごく少数の出資者にだけ「明日挑戦する」ことを伝え、短い睡眠に入りましたが、彼が眠りに入ろうとした時、彼を熱心にサポートするボーイの勘違いした好意によって真夜中に起こされ、そのまま彼は眠らずに大西洋横断に飛び立つ事になりました。

    従って、彼は大西洋横断の最中に猛烈な眠気に襲われ続け、何度も定時に行わなければならない飛行方位の訂正がいい加減になってしまいました。天測航法の練習も十分に積んでありましたが、何度もチャンスがあったにもかかわらず猛烈な眠気から彼は一度も位置の計算をしていません。そして、食べやすいようにと積み込んだサンドイッチさえ口にする余裕はありませんでした。

    しかし、これだけ悪条件が重なったにもかかわらず、彼が陸地を見つけた時、予定の大陸進入地点よりもほんの数マイルずれているだけで、ほぼ目的の地点にちょうど到達する事ができたのですから、奇跡としか言いようがありません。彼が大陸に入ったことは多くの漁船や沿岸民によってパリに伝えられ、パリ郊外の飛行場には1時間少々の時間の間に15万人もの人が押し掛けました。37時間の飛行を終えて着陸した彼が最初にしなければならなかった事は、滑走路に押し寄せる民衆を避ける事だったのです。

    疲れ切っていた彼が駆けつけたアメリカ大使に抱えられるようにして大使館に入り、深く永い眠りから覚めた時に世界は変わっていました。彼は正式に国賓としてフランスに迎えられるだけでなく、イギリスを皮切りに次々にヨーロッパ各国から国賓として招待されました。そしてどの国でも、どの街でも、彼は熱烈な大歓迎を受けたのです。連日のスピーチ、午餐、晩餐、会談と若い飛行家は歴史の頂点でもてあそばれました。

    彼がこれだけもてはやされた理由は、彼がハンサムで控え目な性格だった事もありますが、不況が世界中を吹き荒れていた時代だったので、世界中の人がヒーローを求めていたのでしょう。日本でも号外がでるほどの騒ぎだったようで、後年彼が結婚して妻と二人でアラスカ経由で日本を訪れた時、ヨーロッパと同様の大歓迎を受けています。

    もちろん、彼早く故郷のアメリカ、セントルイスに戻る事を望んでいましたので、偉業からひと月以上も経ってからですが、彼は帰国する事ができました。この時は、彼の出迎え専用の巡洋艦が派遣され、彼は人目を避けて飛行場から借り物の飛行機で港の近くに飛び、逃げるようにしてヨーロッパを去ったのです。彼が大西洋横断に使った「スピリットオブセントルイス号」は現在、ワシントンDCにある航空宇宙博物館のロビー内の正面上に吊り下げられています。

    アメリカに戻ってきた彼はヨーロッパ以上に熱烈に大歓迎されました。その年に生まれた何十万人もの子供が彼と同じチャールズと名付けられ、彼の元には毎日数千通のお祝いの郵便と電報が届きました。中には大切な品物を送ってくる人も多く、倉庫の中に埋もれる事を悲しんだ彼はオールドコートハウスの一角に「贈り物展示室」を設ける事に同意しました。セントルイスは彼を暖かく迎えましたが、時代は彼を必要としており、一部の心無い人が住居に侵入してくる事が絶えなかったので、彼はセキュリティの面からもニューヨークのペントハウスに住む事になりました。これ以後、彼はセントルイスを何度か訪れていますが、住み続ける事はありませんでした。

    後に彼は航空業界発展に尽くし、現在アメリカン航空に買収されたトランスワールド航空(TWA)の前身であるトランスウェスト航空が他の航空会社と共に経営危機に陥ったとき、合併してトランスワールドとなるまでサポートを続けました。

    リンドバーグの大西洋横断と同じ年の1927年にはランバート市長の個人出資で整備された飛行場がサービスを開始し、その年だけで4万人が空港を利用しました。しかし、個人所有の飛行場では将来の発展の妨げになると考えたランバートは、土地のみに投資した金額($68000)だけで全てを買い取ってくれるようにセントルイス議会に諮りましたが、資金が足りないために否決されてしまいます。すると彼は15ヶ月間$1でリースすることに同意し、翌1928年、全米で初めての市営空港が誕生したのです。

 

11.第二次大戦

   セントルイスは第二次大戦中、その地理的理由から主要な役目を果たす事はありませんでした。しかし、群が使用した携帯火器の40%はセントルイスで製造されたそうです。なお、ミズーリ州の名を取った戦艦ミズーリはアイオワ級3番艦として1944年に進水し、降伏調印式の舞台として使用されました。この後戦艦ミズーリは現役として朝鮮戦争に使用された後に予備役となり、1984年にレーガン大統領によって現役に復帰して湾岸戦争に使用され、現在はハワイの戦艦ミズーリ歴史記念館として戦争を語り継いでいます。

12.50年代

    戦争以前の1935年に西部開拓時代の記念碑の建設が決まり、ミシシッピー川に隣接する40ブロックが買収されて更地にされましたが、戦争でプロジェクトは中断しました。戦争後の47年に再びプロジェクトが動き出し、50年代に入って172種類のアイデアの中から192メートルの三角錐でアーチを作る現在のアーチの構想が決まりました。アーチは永久建築物としてステンレスと鋼鉄の二重構造を持つ構造体に全てが納められ、風速70メートルの風に46センチだけ揺れる構造として設計されました。

    1953年、バドワイザーのオーナーのアンハイザー・オーガスト・ブッシュ・ジュニアはセントルイス・ブラウンズのオーナーがブラウンズを売ってしまったので、当時スポーツマンズ・パークと呼ばれていたスタジアムを買い取り、ブッシュ・スタジアムと名付けました。そして、カージナルスを誘致し、彼らの希望に添って新しいスタジアムを建設する事に決定して市に働きかけた結果ダウンタウンに新しいランドマークを求めていた市の思惑と一致してブッシュが$5M、市が$20Mを出資して新しいブッシュスタジアムを建設する事にしたのです。

     1956年にはヤマザキ・ミノル設計のドーム型のターミナルがオープンしました。この設計は後のJFK空港やシャル ル・ドゴール空港の設計に引き継がれていきます。尚、現在四つあるドームの四番目は数年後に増築されたものです。尚、当時から空港の北にあったマグダネル航空機はジェット機時代の到来と共にダグラス航空機と合併してマグダネルダグラスとなり、最初に設計したF4Eファントム戦闘爆撃機はベトナム戦争全般を通して陸海空の3軍で広く使われ、セントルイスは生産に活気づき、用地は拡張を重ねました。今でも日本の航空自衛隊で使われているこの軍用機は戦闘機なのに二人乗りと言う当時の概念を覆すものでしたが、当時信頼性の低かった電子回路を補うには最適の設計で、多くの搭載量と幅広い機器に対応していたため使いやすく、膨大な数が生産されました。後にマグダネルダグラスはF15イーグルで再び全米に軍用機を提供しましたが、その後継機であるF18ホーネットが中途半端な設計だったためにF15の生産終了と共に景気が悪くなり、現在はボーイング航空サービスに吸収合併されています。

 

 

13.60年代

     Placing first sectionGateway Archこの時代にセントルイスの記念碑が一気に誕生します。1959年にゲートウェイアーチの建設が始まりました。アーチの建設中は傾いたアーチの上の部分が結合されていないので、傾いたアーチの片方は地面に9メートル埋め込んでから18メートルのコンクリートに埋め込んだ基礎を5フィート近く持ち上げるため、両方の基礎のコンクリートには最初から1万8千トンの圧力が掛けられました。三角構造のアーチ体はピッツバーグで組み立てられてセントルイスに運ばれ、特別製のクレーンで持ち上げて組み立てられました。建設資金は最初、市が全額出す予定でしたが、資金難から政府が3に対して市が1出すと言う方式に落ち着きました。

  一番下の外側のステンレスは34センチの厚さがあり、自身の重さで圧縮されるため、90メートルまで組み上げてから外側を全自動溶接機で溶接しました。両側それぞれが21の部品に分けられて組み立てられ、最後に中心部を組み込んだのですが、構造が完成したのが63年、それから外側のボルト穴(足場用)を埋めて綺麗に仕上げ終わって外側が完成したのは65年、ノーストラムが運転を開始したのが67年、サウストラムは68年、西部開拓博物館は76年にオープンし、同じ時に川沿いの地域も整備されました。尚、アーチの形は綺麗な放物線を描いているように見えますが、実際は下の部分が放物線で作られるよりも太くなっています。これは設計者達が放物線の作る曲線には満足しなかったためです。

   ブッシュスタジアムは1964年に完成しました。当初は全面が芝生で覆われており、一階席を移動する事でアメフト(セントルイス・カージナルス:(ラムズではないNFLのチーム))のホームグラウンドとして作られていました。座席数は46068で全て赤いシートで、$1.5Mのスコアボードは手動操作でした。66年にカージナルスが初めてプレイをした時は電気式のカージナルバードがスコアボードの横にあり、フェンスの外側から鳴き声を出していたそうで、この時はアトランタを相手に12イニング目に負けてしまいました。1970年には芝生が全て人工芝に交換されました。93年にセントルイス地区を襲った大洪水でブッシュスタジアムも大きな被害を受けたので、大幅に改装しました。その結果、移動式の一階席は固定となり、TWAドーム(現在のエドワードジョーンズドーム)を建設してアメフトの試合はそちらに移りました。その後、95年にダイアモンドビジョンが導入され、96年に天然芝に戻され、97年にスコアボードは更新されて現在のデザインになりましたが、やはり手動操作のままでした。

  14.現在

    尚、現在人気の高いラムズはとても新しいチームで、セントルイスの歴史を作るには新参者過ぎます。先程も少し出ましたが、87年までのアメフトのチームの名前は野球と同じセントルイスカージナルスでした。そして88年にカージナルスがフェニックスに移動した後、しばらくはアメフトのチームがなかったのです。そして先の理由で95年にTWAドームが建設されたためにラムズが登場し、98年は最下位だったのに99年には西地区で優勝しています。尚、ラムズがワールドシリーズで優勝した99年には10万4千人がドームに集まり、集会の参加者数で全米一になりました。

    最後に、現在空港は拡張工事中で、空港の西を通っていたリンドバーグを地下に埋めてその上に新しい滑走路を 建設します。その為に空港の西側I−270迄の間の住宅地は完全に撤去され、現在は更地になっており、リンドバーグが開通するのは2004年、新しい滑走路がサービスを始めるのは2005年の予定です。この地図では、現在の空港ターミナルは右下になります。このように、セントルイスの新しい顔となる空港増設が進んでいます。未来のセントルイスはどのような歴史の上に成り立っていくのでしょうか?